子供の否定と自己否定

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子育て経験のない私が書くのもどうかとは思いますが、最近気になることがあったので、書いていきます。

私たち夫婦には戸籍上の子供はいません。命の宿った、日本の法制度上、形には残りませんが、自分たちの子供として、形を持って現世に生まれてきてくれた子はいます。この子は自分たちの子供ですし、もし、これから先に戸籍上の子供ができても、その子は私たちの中では2番目の子供です。

子供を待望している身からすると、ありえない発言を、卓球を教えている親御さんから聞くことが多くあります。

最近、成績が下がったから、卓球を辞めさせようかと考えているという相談が多くあります。コレが果たしていいことなのか、甚だ疑問です。

その保護者の方は口々に

「この子は勉強をするするといっても、全くしてないダメな子なんです」

と言っています。ある意味突き放すような言い方にも聞こえますが、コレは親が「成績のいい子供の方が自分にとって都合がいい」と思っているだけではないのかなと思ってしまいます。

そして、自分の子供を簡単に否定するということは、その子供を育ててきた、自分自身を否定していることに他ならないということを理解していないのかなと悲しくなってしまいますね。

私は、塾講師をしていた時も、銀行で営業をしていた時も、クルマの営業をしていた時も、生徒やお客さんを否定することはしてきませんでした。特に塾講師をしていた頃は、なんでこんなことがわからないんだなんていうことは一度も行ったことはありません。それは自分の伝え方が、その子に響いていない、伝わっていないだけで、その子供は悪くないからです。

多くの場合、子供の問題は周辺の大人が大きな要因を持ち、大人たちは自分の職務怠慢を子供のせいにして、自分の責任を逃れているだけです。

頭のいい子供が欲しければ、頭脳明晰な子供を養子として取ればいい、でも子供の価値って勉強ができることだけで杓子定規のように決まることなのでしょうか?

卓球を教えていて感じることは、個々に理解能力が異なり、体感として教えることがいい子もいれば理屈として理解させることが必要な子もいます。そこに対して、一定の教え方だけで、この子は伸びない、ダメだと烙印を押すのは、コーチである自分が無能であると大々的に発表しているのと同じです。

伝える力、コレは一朝一夕で身につくものではありませんし、ある程度の信頼関係がなければ物事は伝わりません。しかし、伝わらないのは理解できない子供のせいではなく、理解させられない自分のせいです。

コレを世の中の親はどれだけ理解しているのだろうと考えてしまいます。

子供でも、自分の人格や、積み上げてきたものに対して、否定されれば反抗しますしやる気が削がれます。そんな状態では上達するものもしませんし、好きになることはないでしょう。

好きこそ物の上手なれというように、親の役割は、その子の無限の可能性を引き出し、個々の個性に合わせて情報を提供し、体感させることです。自分の人生をそのまま当てはめても、それはその子の人生にはなりません。より考える力がなくなり、将来の選択肢を狭くします。

一つのことに集中出来る人は、他のことにも集中できます。ですから卓球が上手くなる子は勉強もできるようになります。コレは自然の摂理です。卓球に代表させるスポーツは体を動かしながら頭で考えます。ただ単に、体を動かしているだけではありませんし、思考能力は格段に大きく強くなるのです。だから卓球を辞めれば成績が上がるのではなく、卓球を続けられる気力と体力があるから、成績が上がるのです。

伝える力は言葉だけではありません。親が体現することで、子供はその姿を見て、考えます。

何もせず口だけを出し子供を否定する、コレは自分の否定につながり、なんて悲しい人生なんだろうと考えてしまいます。勉強が全てではありません、もし卓球で一番が取れるのなら、それも褒めてあげる対象です。

キャリア、社会的地位を気にするあまり、子供に自分の人生を乗せるのは子供にとっても迷惑な話です。そんなに可愛くないのであればこちらで引き取りましょうか?と何度も喉元まで出てきて堪えます。

子供ができないからこそ、子供を授かった人には、その対応をないがしろにして欲しくない。コレがベビ待ち夫婦の切なる願いです。

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