初期の頃には書いていましたが、私は会社の仕事でうつ病になり、その後2年間傷病手当をもらいながら生活してきました。今年の5月で手当金の満期を迎え、先ごろの8月15日に退職しました。簡単ではありますが、うつの復職にはさまざまなハードルがあり、これを理解してくれる会社がどの程度あるのかわかりませんが、妻も産後うつから復活したものの、今度はパワハラうつになり、今は休んでいます。現代病といえばそれまでですが、理解の進まないうつからの復職、退職までの道のりを書いていきます。
何かおかしい、そう思ったら病院へ
内科的に調子が悪いわけではなく、でも気力も体力も続かない、仕事も手につかない、そもそも通勤ができない、こんな症状が出たら、即、心療内科に駆け込みましょう。
職場に「うつ病」を伝えても大した理解も心配もされず、そのまま働かされ、回復を著しく遅らせてしまいます。早く専門医にかかり、診断書を会社に提出します。
すぐに受理とは限らない
私の場合ですが、はじめの診断書を上司に出してから1ヶ月、休むこともできず、普段と変わらない仕事をしていました。無理矢理にでも仕事をするため「サインバルタ」という薬を服用し、限界を超えてもなお体が動くようにして乗り切ろうと思いましたが、蝕まれていく一方です。そのうちに会社にいけなくなり、最後には、直属の上司ではなく、お世話になった上司に相談して休職手続きがとれました。そこまで2ヶ月、死なずによくやったと思います。
休みを取ったらノンストレスで休む
会社の携帯は電源オフ、外界との接触もゼロにして、ひたすらに引きこもりました。ここまでくると、外に出るのも一苦労です。症状が安定し始めたのは、休みを取ってから1年半後、そこまでは時間をただ過ごしていくだけの何もない日常を送りました。
休職中の異動、そして営業としての最後を迎える
私は営業大好きな人間でした。それが休職中に、事務部門へ異動、すなわち復職は、もともとのお店ではなく、本部から始まるということです。右も左も知らない環境で仕事ができるのか、不安でしかありませんでした。
クラウドソーシングからつながる仕事の輪
文章を書くのが好きだったので、WEBライターの仕事をクラウドソーシングで見つけて、リハビリがてらやってみました。はじめは発注者との行き違いもあり大変でしたが、そこで私の才能を見出してくれたひとりの人と巡り合います。
脱サラし独立して法人化していて、ライターとしての腕は一流。この人のもとで半年修行を詰めたことが今の自分の土台です。
仕事を取りに行くからもらえるようになる。
こんな記事書いてくれないか?これをいつまでによろしく!と言った仕事が増えてきて、業務量が増えました。それに伴い自分が回復していくのもわかります。
これが自分の求めていた世界、世の中に情報発信して、その情報を必要な人のところに届けられる喜びは今までの仕事では味わえない楽しみでした。
この辺りから、フリーランスのライターとしての生き方を考えるようになりました。
そして傷病手当が切れて3ヶ月、退職の意思を伝えました。もう戻れないだろうと。
戻ってもやりたい仕事ではない、戻っても過去の自分と対比される、だったら自分で、組織に染まらなくてもいい生活を送る方がいいと思い、退職届を出し、個人事業主の開業届を出しました。
名前はオフィスCenTense
響きは「文章」centuryの略のcenと、緊張感のある状態からtenseを掛け合わせた雑言。10はなくなった子供の誕生日なのでTENで掛け合わせ、100年の間ピンと張った糸を切らさぬようという意味です。
楽しくできることが一番。ここで退職は決まりました。
8月15日の退職、肩の荷がおりました。記事を書くにもサラリーマンの世界の締め付けられた状態から解放されて、フリーランスとしての一歩を踏み出せそうです。
治すための休息は何もしない
不安で動きたくなりますが、静かにする、これがコツ。仕事のことは考えず、楽しい作業をしつづける、これが回復の第一歩。そして周りの目も気になるので、戻ることが辛いなら退職届を代理人でもいいので、出しましょう。
うつはうつなりにできるのことがある
マイナスは気にしない、楽しくて元気に、それもこれもあの出会いのおかげ。才能を見出してくれたおかげ。うつは普通の人にはわからない、それを知ろうとしないのは、会社としてはその人を守れない。うつの方、もっと休んでください。
まとめ
仕事がなくなるのは怖いですが、元の仕事に戻るほうがもっと怖いので、私はフリーランスを選びました。生活の補償や、終身雇用ではないけど、無理がない。 無理はしないで、やりたいことは病気がなくなれば、なんでも出てくるはずです。あせらず、整えていきましょう。
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